「アルジャーノンに花束を」

アルジャーノンに花束を (ダニエル・キイス文庫)

アルジャーノンに花束を (ダニエル・キイス文庫)

「あんた、聖書を読んでごらんよ、チャーリイ、人間ってもんは、主がはじめに教えてくださったこと以上のことを知りたがっちゃいけないんだってことがわかるよ。あの木の実は人間がとっちゃいけなかった。チャーリイ、あんた、やるつもりじゃなかったことをうっかりやっちゃったのかもしれないけど――ほら、悪魔ととりひきかなんかして――今から逃げ出してもおそくはないんじゃない。もしかしたらまたもとのようなただのいいひとに戻れるんじゃない」
「もう戻る道はないんだよ、ファニイ、ぼくは何も悪いことをしたわけじゃない。生まれつき目の見えない人間が、光りを見る機会を与えられたようなものなんだ。それが罪深いことだなんてありえない。じきに、世界中にぼくのような人間が何百万人もあらわれるんだ。科学がそれを可能にしてくれるんだよ、ファニイ」(p182)

もし私がそれを発見し、そしてもしそれが、精神遅滞についてすでに発見されている事実や、私のような人々を救う可能性に、たとえひとにぎりのデータにしろ、つけくわえることになるならば、私は満足するだろう。私に何が起ころうとも、まだ生まれてこない仲間たちに、何かを与えたことによって、私は正常人千人分の一生を送ったことになるだろう。
それで十分だ。(P379)

手近かのサイドボードからまたマティーニのグラスを取って説教を続けた。
「誤解しないでくださいよ」私は言った。「知能は人間に与えられた最高の資質のひとつですよ。しかし知識を求める心が、愛情を求める心を排除してしまうことがあまりに多いんです。これはごく最近ぼくがひとりで発見したんですがね。これをひとつの仮説として示しましょう。すなわち、愛情を与えたり受け入れたりする能力がなければ、知能というものは精神的道徳的な崩壊をもたらし、神経症ないしは精神病すらひきおこすものである。つまりですねえ、自己中心的な目的でそれ自体に吸収されて、それ自体に関与するだけの心、人間関係の排除へと向かう心というものは、暴力と苦痛にしかつながらないということ。」

そのときだった。洗面台の上の鏡の中でチャーリイが私を見つめているのに気づいたのは。それがチャーリイで、私ではないことがどうしてわかったのかは知らない。ぼんやりした問いかけるような表情のせいかもしれない。眼は大きく見開かれ、怯えている、まるでことらが一言でも喋ったら、くるりと背を向けて鏡の世界の次元へ逃げこんでしまいそうだった。しかし彼は逃げださなかった。口を開き、顎をだらりと落として私を見つめかえすばかりだ。
「やあ」と私は言った。「とうとうご対面する気になったね」
彼は眉をわずかに寄せた。まるでこちらの言うことがわからないとでもいうようだ。説明してもらいたいのに頼み方がわからないとでもいうようだ。やがて、あきらめたように口もとに苦笑を浮かべる。
「ぼくの眼の前にずっといてくれ」私は叫んだ。「戸口や暗いところや、ぼくの手の届かないところで覗き見されるのはもううんざり、あきあきなんだよ」
彼は見つめている。
「おまえはだれだ、チャーリイ?」
微笑みのみ。
私はうなずく。彼もうなずきかえす。
「じゃあ、何が欲しいんだ?」私は訊く。
彼は肩をすくめる。
「おいおい」と私は言う。「何か欲しいんだろう。おれのあとをつけまわして――」
彼はうつむいた、彼が見ているものを見ようと私は自分の手を見た。「こいつを返してほしいのかい?ここから出ていってもらいたいんだな、そうすりゃおまえは自分のいたところに戻れるもんな。責めたりはしないよ。これはおまえの体、おまえの頭だもの――それにおまえの命だもの、たとえそれを十分に生かすことができないにしてもだ。これをおまえから取りあげる権利はおれにはない。だれにもありゃしない。おれの光りがおまえの暗闇よりいいなんてだれに言えるかい?死がおまえの暗闇よりいいなんてだれに言えるかい?こんなことを喋っているおれって、いったいだれなんだ・・・・・・
他のことを話そうか、チャーリイ(私は立ったまま鏡から後じさりする)。おれはおまえの友だちじゃないぜ。おまえの敵さ。おれはね、おれの知能をあっさりあきらめるつもりはないぞ。あの洞穴に戻るわけにはいかないんだ。おれ、行くところがないんだよ、チャーリイ。だからおまえにどいてもらいたい。おまえは、おまえのいるべき場所に、おれの無意識の中でおとなしくしてろ、そしておれをつけまわすのはやめろ。おれはあきらめないぞ――だれがなんと思おうが。いかに孤独であろうが。彼らがくれたものを守って、世界のため、おまえのような人たちのために、貢献したいんだ」(p397)